2009年11月6日金曜日

イタリアン・ゾンビ



この頃はもっぱら夜更けにイタリアの赤である。柿が旨いので、生ハム&メロンならぬ生ハム&柿がつまみの主役となっている。いま飲んでいるのはシチリアのカンティーネ・アウローラ社、エラ シラー2008。ICEAの認証を受けたオーガニックワイン。抜栓してすぐには太田胃散のような刺激臭があり、水辺に打たれて放置された木杭のような湿った匂いがあった。酒質はタンニンのせいか少し舌にザラつく感じで……と、このように印象を書き連ねるといかにも不愉快なワインのようだが、なぜか全体の印象は好感が持てた。このあたりが自然派ワインの妙なところかもしれない。色も味わいも濃いところはラングドックのヴァン・ド・ペイを思わせるが、それらによくあるキャンディなワインではない。30分くらいすると、刺激臭が和らぎ、代わりになじみのある匂いが支配的となったが、すぐには特定できない。何度もわが袖の匂いを嗅いで嗅覚をリセット(この方法を教えてくれたのはワインアドバイザーで酒屋店主のNさんだった)し、嗅ぎ直す。樟脳? いや、これはカレー粉だ。鍋に入れる前の乾いた状態のカレー粉の匂い。その主成分はターメリックか、カルダモンか?……と、ここまでは一昨日の話。2日目の昨夜はアニュージュアルな匂いは消えて、果実とチョコレートとバニラだけが残った。そして今夜、果実だけがまだ踏みとどまっている。

じつはこのワインの話にはもうひとつ別のストーリーがある。抜栓初日(つまり一昨日)、キッチンテーブルの上には開けて3日目の別のイタリアワインがあった。トレンティーノ=アルト・アディジェのツィオ・ベピ2006。ラグレイン、ピノ・ネロ、テロルデゴという3つの品種の混醸。ピノ・ネロ以外は聞いたこともない。それに惹かれて買ったのだった。抜栓初日のツィオ・ベピは生き生きとしておしゃまな、ガーリッシュなワインだったが、そこにはイタリアワインの持つ(と、僕が信じて疑わない)奥深さや神秘は感じられなかった。これが現代性というものかと思いつつ栓を閉め、2日目に期待。が、2日目になっても伸びることはなく、3日目にはただの駄ワインに成り下がっていた——。イタリアワインへの信頼感に影響が出そうだったこのとき、藁をもすがる思いで開けたのがエラ シラーだったわけだ。ツィオ・ベピはいっそ捨てようかと思ったが、僕のイタリアワインの師であるバー・アズのHさんが語るごとく、イタリアワインにはいったん落ちてまた上がってくるものがあると思い直し、捨てずにおいた。飲み残しのツィオ・ベピと開けたてのエラ シラーとでは「グー」と「パー」ほどの違いがあった。ジャンケンではパーの勝ちだが、ワインのパーはいただけない。パーと表現したツィオ・ベピは各要素がばらけて正体を失っていたのだ。それでも僕は飲んだ。ダメになったワインと、まだバランスを保っているいるワインを飲み比べる。これも勉強である。ダメなワインとは何か? なぜダメなワインは飲み手に快楽を与えてくれないのか? 考えながら飲んだ。それが一昨日のことだ。いま、すべての贅肉を落として果実だけになったエラ シラーの横に抜栓5日目を迎えたツィオ・ベピのグラスがある。いったんは失っていたはずの正体が戻って、ひねてはいるがなかなか佳い飲み物に化けている。喩えは悪いが、これはゾンビだ。イタリアワインにだけ起こるこの現象に科学的な根拠はあるのだろうか?

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